新潮の富田メモ反論に合わせて日経がぶつけてきた?

2006.08.03 Thursday 21:13
くっくり


 死刑でなく病死した松岡洋右が合祀されていることの批判も。
 このへん、ネットで皆さんが指摘済の内容。
 (http://vortex.milkcafe.to/giwaku.htmlの6)など参照)

○徳川元侍従長がA級戦犯や軍人に批判的だった理由として……
 天皇の終戦詔勅を録音した「玉音盤」の存在を察知した近衛兵がこれを奪取しようと皇居になだれ込んできた時、若かりし徳川氏は、顔が腫れ上がるほど殴られ、玉音盤の在り処を明かすよう迫られている。
 徳川氏のA級戦犯、あるいは軍人に対する思いが、昭和天皇と異なっていたのは間違いない。
 富田メモの発言主が天皇ではなく、徳川氏であれば、何の矛盾もない。

○元宮内庁職員のコメント
「松平宮司の父親は宮内府の長でしたから、侍従職にあった徳川さんは、父親の存在をよく知っていた。ですから、親の心子知らずという表現は理解できます。“筑波がよくやった”という言い方も、筑波宮司は旧皇族でしたから徳川さんはよく知っていたと思いますので、これもわかります」

○問題は、メモが書かれたとされる昭和63年4月28日。
 この件もネットで既出だと思いますがいちおう。

・当時の宮内庁記者のコメント
「8カ月後に崩御される陛下にとって、昭和63年4月29日は、最後の誕生日となりました。その4日前の4月25日に陛下は記者会見され、予定されていた時間のほぼ半分の15分くらいで会見を切り上げています。前年に手術をされ、この時もすでに体調が相当お悪かったのです。天皇誕生日に会見記事を出す予定だった各社は、陛下の真意や、お言葉の背景について、富田長官ら幹部にブリーフィングしてもらわなければなりませんでした」

 徳川氏は、この直前の4月13日に侍従の職を退き、宮内庁の侍従職参与に新たに就任した。

・元宮内庁職員のコメント
「会見翌日の4月26日火曜日に侍従職参与となったのです。そして、1週間のうち、火曜と木曜に出勤することになった。そして、参与になって初めての木曜日が、問題の4月28日でした」

 翌日の朝刊用に天皇の会見記事を入稿しなければならない記者たちのために、富田氏が陛下にお会いし、改めて伺った話を書き留めたのが、問題のメモだとされている。が、富田氏が体調の優れない天皇ではなく、その代わりに天皇のお側に50年余にわたって仕えた徳川氏の意見を聞いていたとしたらどうだろうか。

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