「諸君!」「正論」より富田メモで識者見解

2006.08.01 Tuesday 21:09
くっくり



 以上の二つの点と共に、より大きな問題は「なぜ、このタイミングなのか」という疑問である。これが政界の一部に出ている「A級」分祀論に結びつけられるなら、間違いなくそれは悪質な「天皇の政治利用」に当る、と言わなければならないだろう。さらに重大な点は、「八月十五日」まで一カ月を切った、そして「九月二十日」まで丁度、二カ月という、まさにこの時点で文字通り飛び出してきたことに、きわめて強い「政治性」を感じざるを得ない。そこに何らかの意味で国際的な背景があったのか、なかったのか、今後、入手経路その他と共に、これら重大な疑問点について十分に明らかにされなければならないだろう。

■『諸君!』9月号 ジャーナリスト・徳岡孝夫
 <昭和天皇の「A級戦犯」批判を持て囃(はや)す愚>
 昭和天皇は昭和六十三年四月二十八日に「私は、或る時に、A級(戦犯)が合祀され、その上、松岡、白取(ママ)までもが。(中略)だから、私はあれ以来参拝していない、それが私の心だ」と仰ったらしい。宮内庁長官・富田朝彦の同日の手帳にそう書いたメモが貼り付けてあったと「日経」は報じた(七月二十日付)。富田は昭和天皇の御言葉を覚え、あまり時間の経たぬうちに記録したのだろう。

 右の引用のうち(中略)の部分には、戦犯合祀についての陛下のお気持ちが書いてある。筑波藤麿宮司は慎重に判断してA級戦犯合祀をしばし差し止めたのに、松平慶民宮内相の子で靖国の宮司になった松平永芳はさっさと合祀してしまった。親の心子知らずだというふうなことがメモしてある。

 メモが正確に御言葉を写しているものとすると「A級戦犯の合祀は、できれば遠慮すべきだった」という意見を、昭和天皇は持っておられたのだろう。
 しかし御言葉のニュアンスを汲むと、昭和天皇の仰りたかったことは松岡洋右、白鳥敏夫を神として靖国神社に奉ってしまったことへの憤りの方にある。

 松岡洋右(一八八〇〜一九四六年)は自信過剰、独断専行の男だった。「日本の外交は俺に任せろ。アメリカ人のことは俺が一番知っておる」と言わんばかりの自信家だった。
 「満蒙は我が国の生命線なり」と宣言し、日本軍の満州撤退を求めるリットン報告書に反発して国際連盟を脱退したときの首席全権は松岡だった。第二次近衛内閣の外相として大東亜共栄圏の建設を唱え、日独伊三国同盟を結んだのも彼である。さらに日ソ中立条約に調印、ソ連と手を握ってアメリカの参戦を阻止しようとした。幣原外交の親米英路線に真っ向から反対、さながら日本を動かす帝王のごとき観があった。戦後A級戦犯として起訴されたが、病死した。

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