鈴木史朗さんが「南京大虐殺」は真実ではないと思う理由
2011.12.17 Saturday 01:45
くっくり
もう一枚(下)は天津市須磨街の自宅付近で撮ったもの。近所の中国人の楊車(輪タク)夫が楊車に私たちを乗せて遊ばせてくれている光景です。背景も写っていますが、近所の中国人もよく日本人租界へやってきて、「日本人街の水道はきちんと整備されているから」などといって、水道の水などをもらって帰っていました。
「天明公社」という貿易と軍需関係の合弁会社を設立した父の事業もうまくいっていて、わが家は結構裕福な暮らしをしていました。
父が行き倒れになった中国人夫婦を助けて、自宅のガレージの一角に部屋を作って住まわせていたこともありました。その夫婦は恩義に感じてくれたのか、三人の子供にそれぞれ「小一」「小二」「小三」と日本風の名前を付けていて、私と同じ歳だった「小二」とはよく遊んだ思い出があります。
当時の天津は本当に安全で、私は子供の足で歩いて二十分ほどの幼稚園まで、毎日一人で通っていたほどでした。道すがらの中国人が私に対して何かを言ってきたり、身の危険を感じるうようなこともありませんでした。虐殺などが本当に起こっていたとすれば、日本人に対して何らかの罵声が浴びせられたり、少なくとも親から「一人で出歩いては危ない」などと言われたはずですが、そのようなことはありませんでした。
それどころか、中国人に助けてもらったこともあります。家の近くを運河が流れていたのですが、土手でかけっこをして遊んでいて、川に落ちてしまった。溺れていたところを中国人の船頭さんが助けてくれて、自宅まで連れて帰ってくれたのです。川の水を飲んで赤痢(せきり)にはなってしまいましたが。
たまに町で日本兵を見かけることもありましたが、中国人の友達も「カッコイイね。僕も将来はあんな兵隊さんになりたい」ということを言っていたくらいで、規律正しい日本兵の姿には、中国人も日本人も、ある種の敬意と畏(おそ)れを持っていたようです。
天津には七年間住んでおり、子供ながらにシンガポール陥落など戦況についてよく話していましたが、「南京大虐殺」については一度も聞いたことがありませんでした。
〈中国人女性にモテた父〉
父の会社の本社や事務所があった北京にも時々行きました。王府井(ワンフーチン)界隈の大通りに面したところに事務所がありましたが、当時の北京は賑やかで華やかで、やはり穏やかでした。太ももまでスリットの入ったチャイナ服の中国人の女性が自転車で走り去るのを見て、子供心に「すごいお姉さんだなあ」と思っていた記憶があります。
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