後世へ残したい!陸前高田の女子高生の震災体験談
2011.09.20 Tuesday 02:04
くっくり
その日おむすびはもう一度配られましたが、私は食料がなくなったときを気にしてそれを食べずにしまっておきました。
父はその日から消防で生存者と遺体の捜索に行っていました。
一日中いない父が不安でしょうがありませんでした。
津波の情報が入るたび、父の身に何かあったらと思い、ただ祈るばかりでした。
避難者は一般の方はいつの間にか減り、その日の晩は同級生の男の子が拾ってきた、スーパー等で売っているタッパー入りの鰯を割り箸に刺して焚き火で焼いて、高校生数人で食べました。
コメリから劇物が流れだし側溝やマンホールの中から流れ出した汚水と一緒に流れた鰯でしたが、あのときはそんなことは一切考えていませんでした。
考えたとしても笑い飛ばしたでしょう。
私は余った鰯を夜遅く帰ってくるだろう父のために1尾焼いて大事に持っていました。
その日の夕飯だったカレーライスは、ルーを人数分にするためギリギリまで水でかさましし、ご飯も節約のためお粥風でした。
ちょうどそのとき、父も母もおらず、2人の分をもらえるかどうかわからなかったので、私の分の一皿をビニール袋に皿ごと入れ、2人が帰ってきてから私は食べたことにし、2人に鰯と一緒に渡しました。
それまで何も口にしていなかった父が、食べてくれたことが嬉しくてたまらなかったのを覚えています。
image[110919-06jiei.jpg]
初めの一週間は、あの津波を経験した人たちにとってとても壮絶なものだったと思います。
流された町を歩けば場所を問わず遺体があり目にしない方が珍しい状態でした。
私の 11日あたりの体験談はここまでにしようと思います。
消防団のみなさん、自衛隊のみなさん、警察のみなさん、寄付を寄せてくださったみなさん、被災地を心配してくれたみなさん、募金箱に大切なお金をいれてくれたみなさん。
お元気にしていますか。
私はあなたたちのおかげで今の命があります。
毎日に笑顔があります。
助けてくれて本当にありがとうございます。
今度は一緒に生きてくれませんか。
一緒に歩んでください。
あとたくさん笑ってください。
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