後世へ残したい!陸前高田の女子高生の震災体験談
2011.09.20 Tuesday 02:04
くっくり
祖母に聞くと、高校の山にいるらしい、と聞かされたそうです。
母はそれを聞き安心し、私のいる第二グラウンドに向かおうとしました。
しかし第二グラウンドまで車で行く術がないため、歩いて山を越えなければいけませんでした。
道に迷いながら林を掻き分けて歩いていると後ろから、父の声がどこかもわからないような山のなかで、父と合流したそうです。
その後父から軍手を片方貸してもらい、2人で山のなかを歩いて私の元へたどり着いたとのことでした。
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その夜は土の上に敷いたブルーシートの上でシーツ1枚を私、S、母の3人で使い体を寄せあいながら寒さをしのいでいました。
するとどこからか私を呼ぶ声が聞こえそちらを向くと、私の再従兄弟のお母さんが布団に入るようにと促してくれました。
私たちは4人で1人用の布団に入り、無理矢理体を折り曲げ寝返りは一切うてない状態でしたが、体温で暖まった布団で一夜を過ごしました。
しかし、外で焚き火にあたりながら寒さをしのいで一夜を過ごした人、石油ストーブを8人くらいで囲みシーツを方にかけ一夜をすごした人、8人で掛け布団1枚を使い一夜をすごした人など、私たち以上に過酷な夜を過ごした人たちがいたのも事実です。
ましてあの日は外で暖もなく一夜を越した人もいました。
image[110919-04tunamigo.jpg]
翌日の朝、どこから来たのかはわかりませんが、かんぱんとミニエクレアが届きました。
配分はどちらかを1つです。
私は乾パンを1つ食べました。
氷砂糖のみの人もいました。
朝になると、町の様子がはっきり見え、津波の壮絶さが目の当たりになりました。
その日の9時頃、おむすびが1人ずつ配られました。
塩も何も味のついていないおむすびでしたが、あんなに美味しいと感じたのは初めてで、おむすびを食べて涙が出そうになったのも初めてでした。
私たちは2〜3日は何も食べれないことを予想していたのでとても驚いたのを覚えています。
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