【終戦の日2011】外国人から見た日本と日本人(30)

2011.08.16 Tuesday 01:36
くっくり


「歴史再検証 日韓併合」より

 1939年度から施行された「国民徴用令」によって、朝鮮からの徴用も開始され、多くの朝鮮人が日本本土に渡ったが、その内容は次のようなものだった。

 たとえば、忠清南道(チュンチョンナムド)で実施された徴用の例でいうと、公州(コンジュ)・扶余(プヨ)・論山(ノンサン)・青陽(チョンヤン)・舒川(ソチョン)などに、北海道札幌の三菱手稲鉱業所から、約1000名の鉱夫募集があった。ところが応募者数は約7000名にのぼったために、次のような採用考査が施行された。

  第一次 1939年9月5日
  第二次 1940年3月5日
  場 所 扶余事務所、及び各郡所在地の面(村)事務所
  試験官 第一回 佐藤典正(三菱手稲鉱業所責任者)
      第二回 金丸一郎、金相培(キムサンペ)(扶余邑長)
  ほか補助役三名

 こうして厳選された約1000名は、二組に分けられ、その中の一組は同年9月11日、論山出発、翌12日元山(ウォンサン)港着、輸送船(5000トン級)で翌日の夕刻函館港に着いた。採用者(徴用者)たちは歓喜に溢れ、船内では全員歌舞に耽(ふけ)って、元気旺盛そのものであり、手稲鉱業所への就業後も、休祭日は自由に札幌市内に繰り出し、ショッピングはもとより銭函湾での船遊びまで楽しんだ。

 多くの青年たちは、札幌の市内観光や大門通りの遊郭回りに憩を求め、一部は淋病や梅毒に感染し、中には局部の切開手術を受ける者もあって、監督機関では性病対策に苦慮して衛生サックを配るなどした(休暇中の公傷は全額支給)。

 このような徴用の光景は、1945年まで毎年見られた。

注)国民徴用令が実施されたのは1939年7月ですが、適用は日本内地にとどまっていました。「国民徴用令の適用を免除されていた朝鮮人にも実施する」とした閣議決定がなされたのは1944年8月で、実施は同年9月。つまり朝鮮からの徴用が開始されたのは1944年9月なのです。1939年は朝鮮からの民間雇用が自由化された年にあたります(ちなみに官斡旋による労務募集が開始したのは1942年)。よって崔基鎬氏がここで言及しているのは「徴用」ではなく、あくまで民間による「募集・雇用」です。崔基鎬氏自身、この著書の別のページで「私は、1940年、徴用に志願し、三菱手稲鉱業所で1年間働いたが、実態は強制連行でなく、自発的行為であった」と述べています。


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