2011.08.16 Tuesday 01:36
くっくり
僕の場合、6歳で京城師範学校付属小学校に入学したとき、初めて日本人と出会った。1年から4年までは緒方篤三郎先生、5年と6年は朝岡寛一郎先生(1909-99年。茨城出身、幼少のころ渡鮮、京城師範卒)に受け持たれた。お二方は親切誠実なうえ大らかで、曲がったことは決して受け入れない性格であられた。特に朝岡先生には、僕らが6年生になってからは放課後の課外授業もしていただき、そのおかげもあって僕は名門の京畿(けいき)中学に受かった。
当時、朝鮮内の中学校には、朝鮮人だけ、日本人だけ、また少数ながら韓日共学の学校があった。京畿中は朝鮮人だけの中学校であった。当時、小学校にしろ中学校にしろ、日本人と朝鮮人の学生間には、お互いによそ者という感情はあったものの、敵対感情は殆ど見られなかった。
僕が通った師範付属には、日本人専用の第一小学校と朝鮮人専用の第二小学校があって、それぞれの運動場を中にして隔たっていた。しかし、僕らは6年間を通して第一付属の日本人学校と反目や諍(いさか)いに及んだ覚えはない。
京畿中の教師は3分の2以上が日本人で、残りの3分の1が日本で教育を受けた朝鮮人教師であった。だから朝鮮のすべての「教育の淵源」は日本ということになる。僕の祖父、朴勝彬(しょうひん)も、合併3年前の中央大学出身者で、合併前に大韓帝国の検事をつとめた後に弁護士、それから普成専門学校(高麗大学の前身)の校長を7年間つとめている。
当時の朝鮮人は日本人に対して、尊敬はしないものの、軽蔑や敵愾心は殆どなかった。歴史的事実として、植民地化されている現実を認めて生業を営んでいるかたちだった。だから、親は子供に対して、学校でよく勉強していい大学を出て、いい職場にありつくことを願うばかりであった。
このような朝鮮人の強烈な、そして通俗的あるいは利己的な親心は今もって変わりがない。独立運動をする親もなければ、子に独立運動をそそのかす親などはただの一人もいなかった。
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