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- ざんぶろんぞ
- 2007/06/10 11:47 AM
- 「冨田メモ」の冨田元宮内庁長官の孫は中核派の運動家で沖縄の基地反対闘争の活動家である、という話はどこかで書いた人が居るかもしれませんがあえて書いておきます。週刊新潮の5月24日号の記事でもあります。
「週間オブイェクト」さんより
http://obiekt.seesaa.net/article/42364764.html
既出でしたら申し訳ありません。
- にゃはにゃは
- 2007/06/10 09:38 PM
- ウィンストン・チャーチルは言っています。「20歳を過ぎてサヨクをやっている人間は脳みそが足りない」
要は、現実を見据える力がないと、チャーチルは言っているわけですね。
サヨクの由来を考えれば判りますが、その本質は国家転覆、体制破壊にあります。(フランス革命史参照)
フランス革命後、ロシアや中国で革命が起きたわけですが、なぜこれらの国で起きたサヨク革命が日本で起きないのか。
サヨク革命が起きるのは、一般民衆が文明的にも文化的にも大きく取り残されている国だけです。
江戸時代から庶民が豊かな大衆文化を享受してきた日本では、サヨク革命など起こりようも無いのです。
しかし、コミンテルンの洗脳を受け継いだ日本のサヨクには、サヨク革命が起こせないことが、どうやら日本のサヨクが三流サヨクの証であるかのごとく考え、サヨク革命を起こそうと必死なわけです。
このへんは、60年代の全共闘をナマでつぶさに観察した私には、痛いほどわかります。
そんなわけで、21世紀になった今でも、天皇制を崩壊させようと必死に頑張っているわけです。
その時代遅れな必死さがアワレでなりませんが、まあ、頑張ってくださいとしか言いようがありません。
必死になって、中共やソ連の残党に認められようとしているのかも知れませんね。
朝日を始めとするそんなメディアの体質は、ほとんどお笑いですが、うっとうしい害毒言論を社会に撒き散らさんでいいから、「自己批判」でもしていてもらいたい(笑)
- ライアン
- 2007/06/10 10:07 PM
- >福原さん
いやいや、「象徴天皇」の憲法的解釈において、「国民が須く敬うべき対象である」という定義は寡聞にして聞いたことがありませんよ。
ちなみに僕は象徴天皇という制度自体は、その有効性を認めているので、別段否定はしていません。その有効性に関する費用対効果については若干思うところもありますが。
>Tddさん
>そういう態度でもって最初から対話を諦める態度のほうがなおさら不毛かと存じます。考えが大幅に異なっていようとも、対話を行うことを通じて、「どの部分からどのように異なるのか」を明らかにすることは有用なことであると思いますので。
この部分に関しては、そうできるのがきっと理想なんだろうとは思います。
>「価値観の多様化」というフレーズはなかなか便利な言い回しですが、ぼくはこの言葉をほとんど使いません。なぜならこの用語は、自分の考えに対する「潜在的な自信のなさ」を抱える人によって、外部からの騒音を排除せんがための「言い訳」として使われる場合が非常に多いからです。
「価値観の多様化」ではありません。僕は価値観というのは本質的に多様なものであると思っていますので。
あと、僕は自分の考えには自信は持っていますよ。過信にはならないように気を付けてはいますが。
日本は法治国家ですから、個々人の価値観・倫理観にに照らして正しい行動・言動であっても、法というルールブックがその上位的で絶対的な縛りとして存在しますよね。
ただし、逆に言えばそのルールに明記されていない部分については、客観的な正誤の基準は存在しないはずなんです。
だから、他人の価値観・倫理観を否定する時には、それは飽くまで自分という一個人の価値観・倫理観に則ったものであるという認識は持つべきだと思っています。
「社会的な価値基準・倫理観」みたいな曖昧なものを持ち出されることに僕は嫌悪を感じるので、こういう言い方をしたんです。だって、そもそも社会なんてものには人格はない以上、「社会的な価値基準・倫理観」なんて存在する訳がないのですから。
>ここでの一連のコメントの中で、皇室制度に否定的な態度を取ること「自体を悪だと言わんばかりの論調」のものなんてありましたっけ? 具体的に指摘してください。
「皇室制度に否定的な態度を取ること「自体を悪だと言わんばかりの論調」」ではなく、「異なる価値観を持っていること自体を悪だと言わんばかりの論調」です。
個人のハンドルネームは出しませんが、「ハァ、お前、何言ってんだよ」みたいな反応や蔑視的な物言いをされておられる方がいらっしゃいます。
これは明らかに自己の価値観を相手の価値観より上位に置いた上での反応だと思ったので、このように書きました。
>ぼくの見る限り、「日本人であれば」云々という言い回しを用いる人は(すべての人がそうだというわけではありませんが)おおむね「わが国の歴史・伝統・先人の業績」といった事柄を踏まえた上で、 そういう語り方をしているように思います。
「わが国の歴史・伝統・先人の業績」に関しても、個々の捉え方が異なるのは当然でしょう。その捉え方に好き嫌いはあっても、正誤はないはずですし。
もし、正誤があるのなら、その判定基準は何なのでしょうか?
僕には、何らかの客観的な基準ではなく、自己の論をその判定基準としているようにしか見えませんでしたので、こういった書き方になりました。
長くなってしまい、申し訳ありません。ちなみに、国旗や国家の問題に関してはそれを司る法がある以上、法に従うのが当然だと僕は考えますよ。
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