[2] ソ連軍による戦争犯罪…ヨーロッパとの共闘は可能か?

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大町阿礼
2017/08/25 10:23 PM
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町工場の親方
2017/08/26 04:37 PM
 >たとえば、シベリアに抑留された日本の軍民はおよそ64万人で、約1割が祖国に生きて帰ることはできませんでしたが、ドイツの場合は、ソ連軍の捕虜となった約355万人のうち、110万人余りがついに帰らなかった。

 そのほか、戦争中とその後の占領期に、ドイツの200万人以上もの民間人がソ連軍の戦争犯罪によって命を失ったことを、ドイツの歴史研究が明らかにしているそうです。

 その無惨さを、有馬さんはこう表現しています。

【それらを読むと、満州進攻が始まったのが戦争末期の8月9日であり、ソ連軍の占領が南樺太・千島列島以外の本土に及ばなかったことを神に感謝したい気持ちになる】

この文章を拝見し、真っ先に思ったこと。
ただただ感謝すべき英霊の方々。
千島・占守島守備隊の日本軍の奮戦。

ソ連軍が満州で暴虐の限りを尽くしていた昭和20年8月中旬から下旬にかけて、千島列島や南樺太では、日本軍守備隊とソ連軍の間で激しい戦闘が行われていた。
 (防衛庁戦史室)によると、ソ連軍は18日午前1時半ごろ、千島列島の最北端に位置する占守(しゅむしゅ)島に対し、対岸のソ連領カムチャッカ半島から突然、砲撃を始め、上陸作戦を開始した。当時、大本営参謀本部から秘密裏に同島に派遣され、ソ連軍の動向を探っていた永井正氏(78)=少佐=は「ソ連軍侵攻の第一報は、(戦史叢書の)記録より二時間早い17日午後11時半だったように記憶している。満州の惨状は聞いていたので、千島にもソ連軍が来るという予想はあった」と振り返る。

 占守島北端の最前線に布陣していた独立歩兵二百八十二大隊(大隊長、村上則重少佐)は直ちに射撃開始を命令、濃霧が立ち込める深夜、戦闘が始まった。当時、北方派遣軍(占守島、幌筵島)は約4万6千人。野戦砲、重砲、爆薬、医療機材などの装備は、この時期の日本軍のものとしては、ずば抜けた規模だった。占守島では、1カ月分の食糧が備蓄されていた。17日夜は、日米停戦に対する残念会が催され、しまわれていた酒が振る舞われた。みんな酔って寝ていたところへ出動命令が下ったという。
(装備が優れ、食料があった場合、いかに日本軍が強かったかを示す典型と言えます)
カムチャッカ半島から突然、砲撃を始め、上陸作戦を開始した。当時、大本営参謀本部から秘密裏に同島に派遣され、ソ連軍の動向を探っていた永井正氏(78)=少佐=は「ソ連軍侵攻の第一報は、(戦史叢書の)記録より二時間早い17日午後11時半だったように記憶している。満州の惨状は聞いていたので、千島にもソ連軍が来るという予想はあった」と振り返る。

 永井氏がいた部隊(第九十一師団速射砲大隊)は、戦闘が始まった占守島最北端の国端崎から約35キロ離れた南西部の長崎に布陣、18日午前7時、国端崎へ向け出発した。「7時40分ごろ、国端崎から約六キロの大観台あたりで味方の砲声を聞いた。島北部の四嶺山にあった砲台はカムチャッカに向けて1時間に300発の砲弾を打ち、カムチャッカの要塞砲を沈黙させた」(永井氏)
 永井氏の部隊は行軍途中、大観台の手前で戦車第十一連隊(連隊長、池田末男大佐)と合流。「池田連隊長は白装束で日の丸の鉢巻きを締め、砲頭に馬乗りになっていた。戦車37両は一丸となって敵陣に突入、連隊長は戦死された」(永井氏)
 日本軍は被害を出しつつも、終始優勢に戦闘を進めた。札幌の第五方面軍から「18日午後4時をもって全面停戦」との命令が届き、二度、停戦のための軍使を送ったが、いずれも帰らず、ソ連側と連絡が取れないまま戦闘は続いた。
 戦史叢書によると、この間、日本大本営はマッカーサー司令部に宛て、《八月十八日千島列島占守島ニ対シ一部兵力上陸シ我方ハ自衛ノ為已ヲ得ス戦闘中ナリ 彼我共ニ停戦シアル今日甚タ不都合ト認ムルニ付至急停戦スル様指導アリ度》と打電している。
 しかし、戦闘はなおも続いた。日本軍は21日午前、いったんソ連軍を国端崎近くの豊城川河口まで追い詰め、同日午後7時、ようやく停戦が実現した。日本側は翌22日、武器弾薬を同島中央の三好野飛行場に集めてソ連軍将校に引き渡した。ソ連軍将校は北千島派遣軍の兵力を約4千人と想定していたが、「実数はその10倍」と告げると青くなったという。
 永井少佐は昭和21年元旦、占守島からナホトカ経由でモスクワへ送られ、約6年間の抑留生活を送った。「日本が降伏しなければ、我々はもっと戦い、北千島のソ連軍は完全に粉砕されていただろう。戦闘で勝って捕虜になり、つくづく不思議なものだと感じた」と永井氏は述懐する。
 一方、ソ連軍は占守島での停戦後も島伝いに千島列島の占領を続け、北方四島には米軍の不在を確かめてから上陸した。択捉島への上陸は8月28日。国後島と色丹島への上陸は9月1日。歯舞群島の占領は、日本が米戦艦「ミズーリ」号上で降伏文書に調印した9月3日以降だった。ロシア科学アカデミー極東研究所発行「極東の諸問題」副編集長、ボリス・スラビンスキー氏は平成四年五月、「イズベスチヤ」紙に寄稿、こう書いている。
 
北海道を占領するする目的で進撃したソ連軍※は精強な日本軍に完敗し、その恨みから、悪魔スターリンは占守島で戦った日本軍捕虜をシベリアの中でも最も極寒の地に送り多くの人たちが帰らぬ人となった。
もし8月15日以降、占守島守備隊が戦い、ソ連軍を破らなければ、北海道において、どれだけの悲惨な目にあった人々が出たか、と恐ろしくなります。

※スターリン・ソ連は、「ヤルタ協定」、成立後、対日戦略基本構想を決定し、日本の敗戦後も、千島列島全部と北海道北半(釧路市と留萌市を結ぶ線以北)をソ連の担当地域だとして攻撃続行を宣言したのである。


>たとえば、シベリアに抑留された日本の軍民はおよそ64万人で、約1割が祖国に生きて帰ることはできませんでしたが、ドイツの場合は、ソ連軍の捕虜となった約355万人のうち、110万人余りがついに帰らなかった。
この数字で思い出したこと。
ソ連に抑留された経験を持つ、かっての私の上司は、「シベリアにおいて、日本軍捕虜は、敗戦により、酷い状況の中ソ連の兵隊に対して反抗的態度はとらず、従順であったが、ドイツ軍捕虜は傲然として、ソ連兵を馬鹿にする態度を態度をとっていた」、と語っていたのが記憶に残っています。

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