Comments
- じいさん
- 2009/12/14 04:06 PM
- 因みに自分の印象深い話があるのですが、ちょっと紹介します。たまにはこういうのも面白いですよ。
戦後の家族の形の変化もあるのかなと思いますが、意外に自分の生活にアメリカ式の近代主義が溶け込んでるなと思います。こういった切り口は新鮮です。うちは家を作るとき子供の個室を外しました(笑)
宮大工の小川三夫さんと糸井重里さんの対談から抜粋
ほぼ日刊イトイ新聞 - 法隆寺へ行こう!
http://www.1101.com/life/2005-07-15.html
(糸井) 小川さんたちが「一緒に暮らす」というのは寮みたいな形になっているんですか。
(小川) そうです。
(糸井) 個室なんですか。
(小川) だいたい大部屋ですね。ドアはありません。
(糸井) そこもなんか大事そうですね。
(小川) 来て一か月ぐらいでやめる子は、寝ても起きても同じ顔があるというのに耐えられないんです。寝ても起きても同じ顔がある……大部屋にいることで、みんなと仲良くしなきゃならないとか、いろんなことを考えるんですね。ですから、忍耐や何かが自然に養われてくるわけです。
自由な時間がないという生活をしていると、優しくなければ、長時間、みんなと一緒に共に過ごすことができないぞ、ということに気づくわけです。
うちの子は、みんな優しいですよ。たとえば二人で物を持つのでも力のある子は重い方をスッと持ちますよ。料理でもみんなの好む味つけになってきます。それが大切なんです。
個室で育った子がくるわけだけど、それで思うのは……個室がいちばん悪いですよね。
個室があれば自分でそこに入りこんで、自分なりの考えをするでしょう。こちらには、それがいちばん邪魔です。だから昔なんかで、そういう個室で育っていない人たちは、やっぱしそれだけでも修業するのがラクでしょうな。
自分も西岡師匠のところで生活していましたから、仕事場から帰って飯を食うのも何もかも一緒で、寝てても緊張して寝てるようなもんで、自分の自由になる時間はいっさいなかったです。
そこまで自由な時間がひとつもないところまで追いこまれると、自分の癖というものがよくわかります。自分の癖がわからないで、違うことをやったら、師匠に怒られたりするわけです。「あ、これは自分の癖が悪いんだな」とか、そういう風に自然にわかります。自由な時間がなくなるぐらいまでの生活をすると、いろんなことを感じとることができますよね。そこまで感じられないというのは……やっぱり自由な時間があるからでしょう。
みんなと生活をすると、自分の自由な時間は少ないです。しかしみんなと一緒に生活していると、「みんなと一緒にいる自由」というのがわかるわけです。自分の時間のワガママな自由ではなくて、みんなと一緒に生活しないとやっていけないということに、はじめて気がつくわけです。
それがわかると、たとえば一つの建築をやるのにも、穴を掘ってくれる人、屋根をふいてくれる人、材木を運んできてくれる人、みんな、この人らがいなかったらば仕事ができないということに気づくわけです。ですから、そこに家族の自由というのはないですよね。
うちにも奈良の方は職人が常に五〜六人寝ていますから。子供はほんまに勉強してると職人から「なんだ、勉強してるのか? 勉強なんかやめてこい」といわれて……そういう生活には勉強なんかないですよ。しかしその中で楽しむ自由はあるんです。十人ならその十人が集まった中の自由でやっていけるわけですよね。
(2005年)長文失礼いたしました
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