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- shota
- 2006/10/01 11:23 AM
- >Tddさん
返信が大変遅くなり申し訳ございません。
>たとえばあるプロスポーツの選手が自身の体調管理やトレーニング方法を自身の自由な裁量によって行う権利を与えられたとします。
この部分に僕とTddさんの考え方に決定的な違いが見出せましたので、これについてまず書かせていただきます。
Tddさんは国民と国家の関係をプロスポーツ選手とチームの関係に例えています。
『プロスポーツの選手が自身の体調管理やトレーニング方法を自身の自由な裁量によって行う権利を(チームから)与えられた』(括弧部分は僕が文脈から補足しました)この文の大事なところだけを取り出して書き直すとこうなります。「選手は、チームから権利を与えられた」さらに、例えに置き換えられた部分を国家と国民に戻して文を書き直すと「国民は、国家から権利を与えられた」となります。
あなたの考え方からすると、国民の権利(人権)は国家から与えられたもの、ということになります。この考えは明治憲法のそれとほぼ同じです。すなわち、明治憲法では国民の権利は「臣民の権利」と呼ばれていました。つまり、国民の権利は、天皇に支配された国民(臣民)が天皇から恩恵として与えられたものだったのです。
ところが、日本国憲法はそのような理解をベースにはしていません。日本国憲法は、人権は誰かから与えられるものではなくて、人が生まれながらにして有するものだと考えているのです。この点で、明治憲法とは全く性質が異なります。国民は人権を持って生まれてくるのです(天賦人権論)。赤ちゃんは国家から「あなたに生きる権利を与えます」と言ってもらって初めて生きる権利を有するのではなく、赤ちゃんは、生まれたときから生きる権利を有すると考えるのです。
あなたの考えのようにもし人権が国家から与えられたものであるなら、その反射として国民は国家に対して義務を有するというようなことも言えないでもないでしょうが、日本国憲法の下、国民は人権を国家から与えられているわけではありません。たとえば、信教の自由は国家から「あなたはどのような信仰を持ってもいいですよ」と与えられた自由ではなく、もともと国民が持ってる自由なんです。したがって、そもそも国民は国家から権利を与えられてない(すでに持っているのでわざわざ与えられる必要がない)ので、権利を与えてもらった代わりに国家に対して義務を負うとはいえません。つまり、国家との関係で人権を「義務のための権利」と考えることはできません。特に自由権についてはこのようにいえると思います。逆に、憲法の人権規定は、国家権力に対して、国民はこのような権利をもっているのだから、それを侵害してはだめ、と命令しているのです。
>憲法第12条後半の「国民は、これ(この憲法が国民に保障する自由及び権利)を濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」という規定を見れば、「義務のための権利」という考え方もあながち的外れなものではないように思われますが、いかがでしょうか。
この規定は、僕が自由であれば、あなたも当然自由なのですから、あなたの自由を侵害しない限度で僕の自由は制限を受けるという意味です。他人の自由を侵害するような自由は認めないという当たり前のことを言っているのです。また法的な義務とは考えられていません。また、「公共の福祉」という文言の解釈論は争いがありますが、現在の通説的見解では、公共の福祉とは人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理をいうと解されています。つまり、人権と人権のぶつかり合いを調整する限度で合理的な人権制限を認めるということです。これは国家の都合で人権制限しても良いという規定ではありません。あなたは国民は国家に対して義務を負うと考えておられるようですが、例えば、表現の自由や信仰の自由などの権利は具体的にどのような国家に対する義務を伴うのか教えていただきたかったです。
>国家と国民を階級的に区別した上で、国家を「抑制さるべき存在」、国民を「保護されるべき存在」としてのみ規定することは、はたして妥当なことなのか、その点に疑問があるからです。
僕は、前に「法の支配」について調べてみてくださいといいましたが、この「法の支配」についてここで少し書きます。「法の支配」とは専断的な国家権力による支配(人の支配)を排斥し、権力を法で拘束することによって国民の権利・自由を擁護することを目的とする原理をいいます。要するに、国家権力が服すべき法の存在を認めるということです。立法権、行政権、司法権という国家権力作用はすべて法(憲法)に拘束されるのです。ここでは国家権力が誰によって行使されているかということは直接問題になりません。つまり、国民が選んだ代表者が立法権を行使するんだから、というのは国家と国民を区別する必要がないという理由にはなりません。国民が選んだ人たちだから国家権力を濫用するおそれはないとはいえないです。また、立法権については国民が選んだんだから大丈夫だとは言えたとしても、司法権の担い手である裁判所の構成員たる裁判官は国民から直接選ばれてはいませんので「国民が選んだから」という理由は使えません。およそ国家権力を行使する者は憲法に拘束されるんです。歴史を見ればわかるように国家権力は度々濫用されてきたんです。このような国家権力の濫用から国民の自由を守るということが憲法の一番大事な役割なんです。憲法なくしてどのようにして国家権力の濫用から国民を守ることが出来るのでしょうか。
ちなみに、日本国憲法がこの「法の支配」の原理を採用しているのは条文を見れば明らかです(このことについて反対説は聞いたことがありません)。
また、僕は「のみ」とは一度もいっていません。ただ、基本であることは間違いないと思っています。
>理由第一、第二について
あなたは、改正には国会が関与するんだから、国民が憲法を単独で制定しうることに疑問を持っておられますがこれは論理的におかしいような気がします。憲法は、国家の機関を定め、それぞれの機関に国家作用を授権します。すなわち憲法に立法権、行政権、司法権や憲法改正の手続きなどについて規定が設けられます。何が言いたいのかというと、国会に立法権があるのは当たり前ではない、ということです。たとえば、明治憲法5条に「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以ッテ立法権ヲ行フ」とあることから明らかなように、明治憲法下では立法権は天皇にありました。国会に立法権があるのは憲法に規定されているからなんです。したがって、憲法が制定される前の段階の議論に、憲法によって規定される国会を持ち出して、それを国家に制憲権があるとすることの根拠にするのはおかしいと思います。
>理由第三について
制憲権が国民にあるということと、国家によって国民の権利が確保されるべきだということはまったく別の次元の問題なので、同列に論じるべきではないと思います。国民は憲法を制定します。この憲法によって国家権力は制限されますが、国家は憲法により制限された国家権力を行使して国民の権利を確保すればよいのです。憲法の枠組みを逸脱した国家権力の行使は人権侵害行為に他ならないので許されないです。国家の政策により国民の権利が確保されることを期待しているというのはそのとおりで僕はそれを否定しているわけではありません。憲法の枠内で国家権力を行使すべきだといっているのです。
>理由第四について
ここであなたが仰っていることは、日本国憲法が採用している国民主権原理(制憲権が国民にあるということと同義です)の否定です。これが現在において通用する議論とはとても思えません。国民主権の現れといえる条文は(前文、1条、96条など)たくさんあります。ところが「国家にも憲法を制定する能力や権限がある」ということを推知させる条文は皆無です。でもそれは当たり前なんです。なぜなら、制憲権が国民に存するという前提で日本国憲法が作られているからです。日本国憲法においてあなたの説を採用することは不可能だと思います。
>傍証について
憲法で、国家と国民を分けるというのは要するに、国家権力を行使する人(公務員)と国家権力に服する人(私人)に分けるということです。憲法学においては一般に、公務員のことを国家といい、私人を国民といいます(公務員の職務行為は国家の行為といえるから)。なぜ、分けるのかといえば両者に決定的な差があるからです。たとえば、国民が広場に1000万人集まろうがそこで法律を制定することはできませんが、国会議員(公務員)は国会で法律を制定することが出来ます(立法権の行使)。また、国民は他人の家に強制的に入ることは出来ませんが、警察官(公務員)は令状があれば強制的に家に入ることができます(行政権の行使)。さらに、国民は殴られても殴った相手に対して刑罰を科すことはできませんが裁判所(裁判官は公務員)は刑罰を科すことができます(司法権の行使)。このように国家と国民の間には大きな差があるんです。したがって、たとえ国会議員が国民から選ばれたとしても、このような差は存するので、やはり国家と国民は分けて考える必要があるのです。
「国家の名誉にかけ…」の「国家」は対外的関係における日本国という意味だと思います。前文のこの部分は世界の人たちに向けて、日本は尊敬される国になるぞ、という決意表明だと思います。つまり、国家権力を行使する人という意味ではないと思います。
>憲法は国民が制定し『国家に守らせる』ものだ」とするあなたの憲法観は…「神話」でしかないようにぼくには思われます。
僕がこれまで述べた憲法観は、憲法学の通説として争いなく承認されているものです。僕もこの憲法観は正しいと思っています。あなたがこれを「神話」と考えるのはもちろんいいんですが、あなたの説を通説に立つ人たちに理解させるのは相当困難だと思います。なぜなら、あなたの説は近代憲法の基礎を根本から引っくり返すくらい大胆なものだからです。憲法は国民が制定しそれを国家に守らせるという憲法観は19世紀ヨーロッパで起こった市民革命を通じて出てきたもので歴史的な背景をもつものです。フランス人権宣言16条には「権利の保障がされず、権力の分立が定められていない社会は、すべて憲法をもつものではない」と書かれています。また、憲法学では憲法とは国家権力を制限して、国民の権利・自由を保障することを目的とする法をいうと定義されています(立憲的意味の憲法)。このように、近代憲法は国家権力に対する制限規範であるというのはほぼ常識といえるでしょう。国家に制憲権があるというのはこれと真っ向から対立するものです。少なくとも僕には理解することができません。
以上、僕が思うところを書かせていただきました。僕に文章力がありませんのでTddさんに僕の言いたいことが伝わるかはわかりません。ただ、真剣に考えて書きました。Tddさんも僕の話に丁寧に対応していただき本当にありがとうございました。色々と考えるきっかけになりました。最後に、人権と国民主権の関係について端的に説明してある本がありましたのでこれを引用したいと思います。芦部信喜著の「憲法」という本からの引用です。
「近代憲法はすべて個人は互いに平等な存在であり、生まれながら自然権を有するものであることを前提として、それを実定化するという形で制定された。それは、すべての価値の根源は個人にあるという思想を基礎においている。したがって、政治権力の究極の根拠も個人(すなわち国民)に存しなくてはならないから、憲法を実定化する主体は国民であり、国民が憲法制定権力の保持者であると考えられた。このように、自然権思想と国民の憲法制定権力の思想とは不可分の関係にあるのである。また、国民の憲法制定権力は、実定憲法においては「国民主権」として制度化されることになるので、人権規範は主権原理とも不可分の関係にあることになる。」
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