Comments
- 田舎人
- 2012/06/19 06:20 AM
- お早うございます。
朝一番 清々しいお話を読ませていただきました。
有り難うございます。
- ミルル
- 2012/06/19 11:26 AM
- 根付と言えば、高円宮妃久子様が論文を書かれて博士号を取得されましたね。
先月の読売新聞によると、妃殿下は論文を書かれた動機について
「学生が興味を持って研究しようとしても基本になる論文がない。誰かが書かなければならないと思いました」
と述べられたそうです。
だいぶ前に行ったある美術展の根付コーナーでその精巧さに驚いたのですが、今まで日本人による国内での学術研究はなかったそうで、それも意外でした。
高円宮コレクションは現代根付が中心だそうですが、いま近くの大学で展示されてるそうなので、この機会に鑑賞させていただこうかなと。
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120618/chb12061822410009-n1.htm
http://www.seitoku.jp/lib/newhp/seitokumuseum/info.html
湯呑みに五千円は我が家ではちょっと敷居が高いですが、茨城の笠間等に遊びにいった折には若い作家さんの、もう少しお値頃価格なコーヒーカップや香炉など買っています。
独特の技法やデザインがなかなか楽しいです。
- おれんじ
- 2012/06/19 06:16 PM
- くっくりさん、昔の投稿を取り上げて頂き本当にありがとうございます!
「ジャカルタ夜明け前」には私達が感動するエピソードが沢山書かれており、目から鱗が落ちる事が度々ありました。今は絶版なのかな?もしアマゾンなどで出品されていたら是非入手なさってくださいませ(^_^)/。
ついでにもう一つ同書より感動的な逸話をご紹介させてください。
- おれんじ
- 2012/06/19 06:20 PM
- 第十六軍宣伝部 青年課長 金子智一さんの話
(敗戦後、イギリス・オランダ軍が再びインドネシアに進駐してきた時の話です)
イギリス軍は十月十七日に進駐して来ました。
バンドンはじめ主な都市には放送局があり、放送局はインドネシアが確保していますから、各地の様子は一日か二日遅れですが、刻々と伝わってきます。イギリス軍がバンドンに進駐してきたころバンドンを沸かせたのはスマラン事件でした。
ジャワ島中部にあるスマランでも日本軍とインドネシアの間で武器の奪い合いがありました。十月十四日の夜、インドネシア人たちが日本人の住宅地に来て、ここは危険だから、と日本人を連れ出し、市内のブル刑務所に入れてしまいました。多くの日本人はインドネシア人に従ったのですが、連行されることに不安を感じた人たちはそれを振り切って日本軍のいる所に逃げ込みました。
邦人が連行されたと聞いて日本軍も黙っているわけにはいきません。その夜遅く、暦の上では十五日暗いうち、日本軍は出動しました。
それを知ったインドネシア人は、刑務所に入れた日本人を生かしてはおけないと、次々と日本人を殺し始めました。刑務所に連行された百数十人の日本人ほとんどが殺されましたが、そのとき、かすかに息が残っていた阿部頌二君が自分の体から流れ出る血で壁に、
バハギア ムルデカ 祝福独立
インドネシア独立 喜び死す
日本人万歳 大君
と書いて倒れました。これを、また虫の息で倒れていた高見角次郎さんが見ていて、十六日夕方になって助けに来た日本軍に伝えました。高見さんは山梨県身延山の駅の助役をしていた人で、後に僕は高見さんからこのことを聞きました。血書を書いた阿部君は、慶応大学を卒業して、森永乳業に勤めていた人ですが、私と同じ山形県生まれの人なので、深く心に残りました。
ブル刑務所の壁に書かれた血書は、スマランの日本軍だけでなく、ジャカルタからやってきた軍政監部政務班長の斉藤鎮男君や国務大臣を務めていたサルトモも見ました。
この事件には日本人も驚きましたが、インドネシア人の間でも、インドネシア人から撃たれ、命が絶えようとしているとき、インドネシアの独立を祝って死んでいった、とアッという間に広まりました。
☆この血書を書いた壁は今でもどこかに保存されていると聞いたことがあったのですが、定かではありません。そうであれば嬉しいことですが。長々失礼しました<(_ _)>。
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